宇宙には、様々なサイズ、形態の惑星が存在します。
例えば、地球よりはるかに大きかったり、小さかったり。
形態も、
地球のような岩石質惑星、
木星のようなガス惑星、
天王星のような氷惑星、
などなど様々です。
昨今では、「地球に近い大きさで、なおかつ水のある惑星」の探索が、盛んになっているようです。
2015年に、NASAが「液体の水」が存在する可能性がある惑星を、発見しました。
「ケプラー452b」と名付けられ、地球から1,400光年離れています。
1,400光年とは、光の速さで1,400年かかる距離ということですね。
途方もない距離です。
さらに、2017年、やはりNASAが地球によく似た惑星を、7つ発見しました。
今度は、地球から39光年の距離なので、格段に近いです!
といっても、今の技術では辿り着けませんが(;^_^)
この7つの惑星は、全て「1つの恒星系の惑星」、
つまり太陽系の太陽のような特定の「恒星」の周りをまわっています。
いずれも、地球の0.7~1.1倍の大きさというのですから、地球に非常に近いサイズです。
そして、その7つの惑星のうち少なくとも3つの惑星の地表に、「液体の水」が存在する可能性があると言われています。
なぜ、地球と似ていて「水のある惑星」が、探索されているのか。
それは、そうした環境ならば「生命」が存在する可能性があるとみなされるからです。
「地球外生命体の存在」ということですね。
ただし、ここで言う環境は「地球の生命」の環境を基準としているでしょうから
地球とは全く違う形態の生命、
想像の世界ですが、例えば、水分がなくても生きる生命体、大気がなくても生きる生命体など、
地球の常識では計り知れない生命体も、存在するかも知れませんね。
ところで、決して忘れることのできない「惑星」の物語があります。
地球からはるか彼方、海に覆われた惑星の話です。
波立つ海と、海に立ち込める霧。
一見して、「地球の海」と似ているように見えますが、この惑星の海は根本的に違います。
単に、生命をはぐくむ大きな水の集まりではありません。
その海はなんと、ひとつの有機体、つまり「生命体」なのです。
その惑星は、「ソラリス」と呼ばれています。
これは、アンドレイ・タルコフスキー監督の1972年の旧ソビエト連邦の映画「惑星ソラリス」の世界です。
映画の原作は、ポーランドのSF作家であるスタニスワフ・レムの小説「ソラリスの陽のもとに」。
映画の設定はSFですが、タルコフスキー監督の独特の世界観によって、SFの枠にとどまらず、心理学、哲学、人間の情景に重きを置いた作品になっています。
では、映画「惑星ソラリス」の世界に入ります。
(以下、映画の完全なネタバレがありますので、ご了承ください)
ソラリスの海
惑星ソラリス上空のステーションで、人類は、何十年もの間「ソラリスの海」の研究を行ってきました。
一見、何の変哲もない海。
しかし、探索機で上空を飛行していると、海上で驚くべき現象が起こります。
海の、ある部分で海面が凝固して、何かの「形」を作り始めるのです。
「形」とは、そこにはあるはずのない想像を超えたものです。
例えば「公園」。
そう、遊具があり、木立がある、子供たちが遊ぶあの「公園」です。
ソラリスには陸地がないので、そんなものが存在するわけがありません。
いや、そもそも、地球の「公園」が、この惑星にあるはずがありません。
いったいどうして、そんなものが出来上がるのか。
誰が、そんなものを作るのか。
よく見ると、その「公園」の細部は偽物です。
木も葉っぱも、単に形を模しただけで、本物とは違います。
この「公園」は、海の凝固した部分が作る「造形物」なのです。
またあるときには「赤ん坊」が現れる。
海の上に、「赤ん坊」が浮かんでいるのです。
極めて異常な光景です。
なぜ、ここに人間の「赤ん坊」がいるのか。
しかも、4メートルもの大きさです。
本物であるはずがありません。
これらの「造形物」は、調査員が上空を飛行しているときに現れるのです。
目撃した調査員は驚愕し、混乱します。
行方不明になる者、精神に異常をきたす者もいます。
ソラリス・ステーションの謎
地球に向けて、不可解な報告ばかり送ってくる、ソラリス・ステーション。
研究は行き詰まり、最初は数十人いた研究員も、今ではたった2人になってしまった。
今後も研究を続けるのか、中止にするのか。
それを見極めるために、地球から心理学者ケルビンが派遣されます。
ソラリスに到着したケルビンが見たものは、荒廃したステーションと、
部屋にこもる2人の研究員でした。
いたるところにゴミが散乱し、むき出しの電線がショートして火花を散らしたまま放置されています。
研究員の2人は、彼を出迎えることもしません。
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研究員たちが隠すもの
残った2人の研究員、スナウトとサルトリウス。
彼らの挙動は、どこか不審です。
初めて会ったというのに、さっさと部屋から追い出そうとしたり、
半透明のドアに内側からカーテンをかけて、中が見えないようにしている。
まるで、何かを隠しているようです。
いったい何を隠しているのか。
それはすぐにわかります。
彼らの部屋には、いるはずのない人物がいるようです。
それは、あどけない子供や、子供とも大人ともつかない風変わりな人物。
今このステーションには、ケルビンを含めて3人しかいません。
子供など、いるはずもありません。
いったいこの人物たちは、何者なのか。
そして、奇妙な現象はケルビンも起こります。
妻のハリー
ケルビンが部屋で目を覚ますと、ベッドの前の椅子に彼の「妻」が座っています。
いつの間にかそこに座っていて、じっと彼を見つめています。
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ケルビンの妻がいる。
それは、単に「場違い」というよりも、不可能なことなのです。
なぜなら、彼の妻はもうこの世にはいないからです。
妻・ハリーは、10年前に亡くなりました。
ケルビンとの夫婦喧嘩の後、彼の研究用の薬品を腕に注射して、自らの命を絶ったのです。
今、目の前にいるのは誰なのか。
ハリーは彼に問いかけます。
「私のスリッパはどこ?」
異常な事態に、必死に平静を装うケルビン。
彼の額からは、汗が滴り落ちてきます。
スリッパを探す妻から目をそらして、彼は言います。
「スリッパは・・・そこにはないよ」
妻のハリー自身も、何か混乱しているようです。
ケルビンが旅の荷物で持ってきた、亡きハリーの写真立てを指して
「この人は誰?」と問います。
自分のようだけど、自分ではない。
「なんだか頭が混乱して、思い出せないの」
自分がいったい誰なのか、わからないのです。
まるで、生まれたばかりの生命のように、頭の中の情報が足りないのです。
ロケット発射台
ケルビンは、仕事があるからと言って、
妻とともに宇宙服に着替え、ロケットの発射台に行きます。
狭い操縦席に「妻」を乗せたかと思うと、急いで外側からハッチを閉めます。
ロケットの発射ボタンを押します。
激しい噴射とともに、妻だけを乗せたロケットは上昇していきます。
なぜか、噴射音にまじって人間の叫び声のような、すさまじい音が聞こえます。
無我夢中で打ち上げたため、ケルビンは発射台から退避することを忘れ、ロケット噴射の炎で顔に火傷を負います。
やがて、ロケットは見えなくなります。
ケルビンは、突然目の前に現れた妻を宇宙に葬り去ったのです。
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人間の意識を物質化する
10年前・・・
些細な喧嘩だと思っていたのに、自分が家を離れた隙に薬で自殺してしまった妻。
再び現れたあの「妻」は、いったい何者なのだ。
全くの自分の幻覚、妄想だったのか。
しかし、触れた体温、声、立ち振る舞いは、どう見ても「妻」そのものだった。
この現象は、いったい何だというのだ?
もはや、冷静さを失っているケルビン。
その様子を見た研究員・スナウトは、慣れた口調で言い放ちます。
「そうか、現れたか」
スナウトは、これまで研究してきたソラリスの秘密を語り始めます。
ソラリスの海は、人間の頭脳から記憶の一部を取り出して「物質化」してしまうのだ。
我々が眠っている間に、記憶を抽出するらしい。
彼ら(造形物)は、また現れるかもしれない。
無限に再生し得るからだ。
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研究員たちの受難
スナウトの言葉通り、妻・ハリーは、再びケルビンの前に現れます。
ロケットで打ち上げたハリーとは別の、「新たなハリー」です。
一人目と同じように、このハリーにも感情があり、寂しがり、傷つき、涙を流します。
次第にケルビンは、彼女を「造形物」としてではなく、「妻」として接していきます。
しかし、もう一人の研究員・サルトリウスは、そんな彼に警告します。
ハリーはもう死んでいるのだ!
「これ」は女ではない。
人間ですらない。
「これ」は、ソラリスが作った単なるハリーの「複製」に過ぎないのだ!
我々は、仕事に取り組むべきだ!
ケルビンは、妻への愛情と現実の間で迷い、悩み、生気を失っていきます。
もはや冷静な学者ではなく、戸惑って苦しむ一人の人間です。
ソラリス研究を見極めるためにやって来た彼は、
見極めるどころか、自分がソラリスの「造形物」に心を奪われてしまった。
これがまさに、ステーションの研究員に降りかかった受難だったのです。
ソラリスの海が意思を持って「造形物」を作っているのかどうかはわかりません。
ただ、人間たちが、自分の内だけにあるはずの「意識」と対面して、混乱しいくのです。
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人間の深層に迫ったタルコフスキー
この映画で、タルコフスキー監督は、SFという舞台を借りて淡々と人間の情景を描きました。
ロケットやステーション、複雑な計器類が登場しても、タルコフスキーにとってそれらは単なる「飾り」なのかもしれません。
そして、映画には、原作にはないモチーフが入れられています。
地球上でのケルビンの生家の風景です。
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静かな池や木立ち、宇宙に発つ彼との別れを惜しむ年老いた父と母。
せせらぎの中で揺れている、水藻。
納屋にいる馬、家の周りで遊ぶ犬。
ゆったりした時間の中で、こうした牧歌的な風景が流れていきます。
これらの場面は、原作には全くありません。
全て、タルコフスキーの世界観です。
以前、当メルマガに登場した、タルコフスキーの映画「ストーカー」にも通じるものです。
SFの設定が、単なる「味付け」に過ぎないと感じるところまで、強い演出の方向性を示すのです。
こんなエピソードがあります。
「惑星ソラリス」の映画化に関して、原作者のSF作家:スタニスワフ・レムとタルコフスキー監督が話し合いました。
2人は、互いの主張をぶつけ合ったあげく、しまいには決裂してしまいました。
原作者としてSFの設定にこだわったレムと、それとは反対方向の演出をしようとするタルコフスキーが、ぶつかり合ったのかもしれません。
最後に、怒ったレムが
「お前はバカだ!」と言い放ったそうです(;^_^)
もともと、レムが鋭く批判的な人間だったこともあったようですが、
タルコフスキーが、それだけ強い信念や方向性を持って映画作りに臨んだのは、確かなことでしょう。
そして、2人とも、さぞかし強烈な個性の持ち主だったのでしょう。
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ケルビンの原風景
映画のラストシーンです。
主人公ケルビンが、彼の生家に戻っています。
大好きな両親が住む家。
彼が帰りたかった場所。
彼のもとに、犬が走って来ます。
バッハのコラール前奏曲が流れています。
家には父がいて、何やら書物を探しています。
天井から「水」が落ちています。
父の肩にも、水が滴っています。
バタバタと落ちてくる、尋常ではない水の量。
しかし、父はまったく気にしません。
なぜなのか?
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やがて父は、窓から覗いているケルビンに気づき、家の外に出てきます。
ケルビンは、安堵感に浸るかのように父の足元にひざまずきます。
カメラが上昇していくと、俯瞰映像(見下ろす映像)になり、
家のそばの池が映り
周辺の道が映ります。
さらに上昇すると
その周りには、広大なソラリスの海が広がっています。
ソラリスは、彼の原風景を「島」にして作り出したのです。
ハードSFの鋭さと、自然の風景を描く静かな描写が、強烈な対比を生んでいます。
今、劇場ではめったに上映されないであろう本作。
ブルーレイやDVDなどで見つけたら、是非一度見てみてください。
ではまた次回!
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