男が懸命に、砂を掘っている。
家の周囲に溜まった砂を、スコップで黙々と掘っている。
掘った砂を、モッコと呼ばれる運搬用具に入れて運んでいく。
毎晩毎晩、寝不足になりながら、この作業を繰り返す。
ここは海辺の砂丘。
砂丘の大きな窪地の底に、バラックのような木造家屋がある。
その家の前で、男がこうして砂を掻いている。
だがここは、彼の家ではない。
彼は、たまたま立ち寄った旅人だ。
掻いて運び出さないと、じわじわ押し寄せてくる砂で家が埋まってしまうのだ。
でも、客である彼がなぜ毎晩砂を掻いているのか?
それは、こんな顛末だった。
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今から何日か前。
教員の彼は、3日間の休暇をとって、趣味の昆虫採集のためにこの砂丘にやってきた。
新種のハンミョウ(昆虫)を探しに来たのだ。
採集に夢中になり、夕方になると、帰りのバスが終わっていた。
国道まで歩こうと思っていると、村人から、とある民家への宿泊を勧められた。
それがこの家だった。
この貧しい村は、一軒一軒の家が、まるで蟻地獄の巣ような砂の窪地の底に建っている。
おそらく、飛砂(ひさ)を避けるためだろう。
窪地の家には、縄梯子で降りるようになっている。
※飛砂・・・海岸の砂浜や砂漠の砂が風によって移動する現象
家には、一人の女が住んでいた。
彼はその夜、夕食を食べさせてもらい、眠りについた。
翌朝、金を払って発とうとすると、地上への縄梯子がない。
上から縄梯子を下ろしてもらうよう女に伝えるが、女は答えず、ここの生活の話をする。
「ここでは人手が足りない」
「これから冬になり、砂嵐がやってくるが、女手一つでは乗り越えられない」
何を言っているのだ?
自分は今から帰るのだ。
男は問い詰めるが、女は目を背けるように「すみません」と繰り返す。
「すみません」だと?
驚きと恐怖を感じて、男は家を出てスコップで地上への道を作ろうとした。
しかし、砂に足を取られて上がれない。
そして、掘った影響で砂の斜面全体が上から崩れてきた。
彼は、砂に溺れてもがいた。
砂の崩壊が大きくなり、危うく砂に飲まれそうになった。
ここから、自力では地上に上がれない。
彼は、この砂の家に閉じ込められてしまったのだ。
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不条理な世界を描く「砂の女」
この物語は、1964年に公開された勅使河原 宏(てしがはらひろし)監督の映画「砂の女」です。
原作は、阿部公房の同名の小説。
阿部公房は、シュルレアリスム小説の巨匠で、映画でも脚本を担当しています。
極めて生々しくリアルな、男女のやりとり。
極限まで研ぎ澄まされた情景描写とセリフ。
砂を背景とした官能的なシーンもあり、生きることを切り取って描いた大人の映画と言えるでしょう。
公開から55年以上経った今観ても、非常に前衛的な映画です。
「砂の女」の原作小説は、海外での評価が高く、ロシア語、デンマーク語ほか二十数か国語に翻訳され、1968年には、フランスで最優秀外国文学賞(英語版)を受賞しました。
ちなみに、「シュルレアリスム」とは、美術のダリやマグリットなどで知られるジャンルです。
現実の常識にとらわれず、作者の主観で自由な世界を表現する。
「超現実主義」と呼ばれるジャンルです。
(以下、映画の完全なネタバレを含みますので、ご了承ください)
なぜ砂の家に住むのか
電気も水道もなく、ランプが一つしかない砂の窪地の家。
砂に埋もれてしまうから、掘って掻き出して生きている。
生きるために砂を掘るのか
砂を掘るために生きるのか
わかりません。
なぜ、わざわざそんな場所に住むのか。
もっと別な場所に住めばよいのでないか。
誰もがそう思うでしょう。
しかし物語では、女や村人たちは、ここに根を下ろして生きています。
女の夫と中学生の娘は、昨年の大風で砂に飲まれてしまった。
二人の骨は、まだ砂に埋まったままです。
それでもここに住んでいる。
「ここが自分の家だから」
女はそう言います。
この物語では、「砂の女」や「砂の家」、そして奇妙なこの村全体が超現実の世界に感じられます。
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本質を浮き彫りにする物語
ムダを一切排除して本質だけを残していくと、ごく日常的なのに非現実的に見えることがあるように思います。
例えば、我々の毎日の生活。
毎日同じ時刻に起きて、朝食を食べて出かけ、夜になると戻ってきて夕食を食べて寝る。
もし部屋をカメラで撮って早回しで見てみると、自分はまるで判で押したような行動をとっていることでしょう。
機械のように、正確で規則的なパターンです。
7回のうち1回か2回、いつもと違う時間に起きるだけ。
何年もの間正確に続く、このパターン。
あるいは、昨今よく見かける風景も同様です。
誰もが常に、スマートフォンにかじりついて手放せない。
目の前に美しい風景が広がっていても、目の前に会話する人がいても、スマホをいじっている。
電車に乗れば、ほとんどの人がスマホにかかりきり。
車や自転車に乗っていても、スマホを見ながら運転をして事故を起こすほどです。
まるで人間が、スマホにつながれた歩くだけの生き物のようです。
こうしたごく普通の風景も、見方によってはシュールな風景に見えてきます。
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水を飲むために砂を掘る
男は、この監禁状態に抵抗するために女を縛り上げます。
そして、いつもの砂掻きの仕事を女にやらせず、ストライキを起こし、村人に縄梯子を下ろすように仕向けます。
しかし、何日経っても縄梯子は下りて来ず、誰も助けには来ません。
村人は、黙って遠くから観察しているだけです。
そうしているうちに、溜めてあった瓶(かめ)の水が次第になくなっていきます。
この村では、水も食料も「配給制」で与えられているのです。
砂掻きの仕事をすると、地上から、水や食料の配給品を下ろしてくれる。
でも、やらなければ配給されない。
「ちゃんと働かなければ生命の保証はできない」というわけです。
恐ろしい、奴隷のような状況です。
やがて水はなくなり、抵抗を続ける男も、男に縛られた女も、渇きに苦しみます。
そして、ついには音を上げて、男は「降参」の印の炎を掲げ、地上から水を下ろしてもらいました。
水を張ったバケツが下りてきたとき、男は、同様に渇きに苦しむ女を押しのけて、自分が先に水にかぶりつきます。
自分の命をつなぐための、生々しい人間の行動です。
こうして男は、観念して砂掻きをすることになったのです。
水がないと人はどうなるのか
水を飲まないと、人はどうなるのでしょうか。
一般に、水と睡眠をとっていれば、食べなくても、人は2~3週間は生きられるようです。
しかし、水を一滴も飲まないと、4~5日程度で危険な状態に陥るとのこと。
体が脱水症状をおこすと、体温調節のための汗が出なくなり、体温が上昇します。
血液の流れが悪くなり、体内に老廃物が溜まって、全身の機能が障害を起こします。
体内の水分の20%が失われると、生きていけないのです。
体重が50kgの人なら、10kg(10リットル)の水分を失うと危険だということです。
カラスの罠を作る
男は、砂の家の生活に少しずつ慣れてきます。
人というのは、どんな環境でも飲み食いさえできれば、順応するものなのでしょうか。
いつしか、女と夫婦のような生活をしています。
時には、家から脱走しようと、下からカギのついた縄を投げてひっかけて、地上までよじ登りました。
しかし、砂丘を歩く途中で流砂にはまって溺れそうになり、村人に助けられて、また家に戻って来ました。
そうこうしているうちに、不思議と彼は村人たちともどこか親しくやり取りするようになっていきます。
でも、脱走のチャンスを諦めたわけではありません。
彼はあるとき、砂の中に樽(たる)を埋めてその上に新聞紙を貼り、カラスを捕まえるための罠を作ります。
カラスが餌のニボシくわえるや、新聞紙が破れて樽の中に落ちてしまう、という作戦です。
彼は、この罠でカラスを捕まえて、カラスの足に助けを呼ぶための手紙をつけるというのです。
「助けてくれ」と書いた手紙です。
まるで、伝書鳩のようなイメージです。
でも、利口なカラスは罠にはかかりません。
この作戦は失敗でした。
しかしそのうちに、彼はこの樽で予想外の驚くべきことを発見します。
樽に溜まっていく水
彼が樽の中を確認したとき、中に水が溜まっているのを発見します。
舐めてみると、海水ではなく「真水」です。
ここ三週間以上雨は降っておらず、雨水が溜まったわけではない。
どうやらこれは、砂の地面に含まれる水分が毛細管現象で樽に染み出してきて溜まった水のようです。
思わぬ発見に、彼は驚きます。
「これで、水の心配はなくなるかもしれない!」
そして
「研究次第では、もっと効率のよい貯水装置が作れるかもしれないな」
彼は心躍らせて、ひそかに研究を続けます。
脱出のときはきた
同時に、もう一つの重大事が起こります。
突如、夜中に女が苦しみだしたのです。
いつもと違う様子です。
男が異変を感じて助けを呼ぶと、村の男が窪地に下りてきて様子を見るなり、言います。
「子供だな」
どうやら女は、男との子供を身ごもっているようです。
聞けば、以前から苦しんでいたとの事。
男にはわかりませんでした。
やがて、数名の村人たちが降りてきて、これまで2人だけだった家の中はにわかに騒然となります。
村人たちは、女を担いでモッコに乗せ、地上に引っ張り上げます。
騒動の中で、彼は村のリーダーに声をかけます。
しかし
「もうここから出してほしい」
そう言ったのではありません。
彼が手にしていたのは、貯水装置の研究ノート。
何日にも渡って記録してきたものです。
彼は、貯水装置のことを村人に伝えたかったのです。
しかし、場合が場合だけに、彼は「いや、またそのうちに」と話すのをやめます。
もはや、逃げることを主張しません。
彼は、ここの生活を受け入れたのでしょうか。
やがて、村人たちみんなが、女を運んでいなくなります。
引き上げ忘れたのか、縄梯子が下ろされたままです。
彼は縄梯子を上って、地上に出ます。
地上には、誰一人いません。
荒涼とした砂丘だけが広がっています。
強い風が、砂を散らしています。
茫然と砂丘をさまよう、自由になった男。
しかし、その顔にはなぜか喜びがありません。
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彼は、いつの間にか、砂の家に戻っています。
家の前の貯水装置を確認すると、たっぷりと水が溜まっています。
急いで逃げる気持ちは、消えています。
それよりも、
この貯水装置のことを誰かに話したい。
おそらく村の人だったら、この装置の価値がわかるだろう。
みんな水で苦労しているのだから。
装置のことを話したい気持ちで、いっぱいです。
逃げる手立ては、また今度考えればいい。
彼は、そう自分に呟きます。
失踪宣告で明かされる男の名前
最後に、裁判所の「失踪宣告」の用紙がうつります。
「七年以上生死不明のため 失踪者とする
不在者 仁木順平」
映画の最後で、男の名前が明かされます。
失踪して初めて「名前」が意味を持ったかのように。
果たして男は、砂の家に定着したのか、あるいはどこかで命を落としたのか。
それ以上のいっさいの説明はなく、映画は終わります。
希望の味
原作と脚本を担当した阿部公房は、「砂の女」について、そして「自由」というものについて、次のように語っています。
「鳥のように飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって誰からも邪魔されまいと願う自由もある」
そして、こう述べています。
「砂を舐めてみなければ、
おそらく希望の味も分かるまい」
一つの解釈ではくくりきれない、象徴的な場面の連続。
ここでは、余計な評論は避けておきます。
昨今の映画に飽き飽きしている人には、たまにはこうした根源的で核心に迫る映画を、お勧めします。
日常の中の非日常を、是非味わってみてください!
ではまた次回!
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